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​秋月と葛

葛が秋月の名産となり、幕府への献上品となったのは江戸時代の後半です。そこに至るまでの秋月の歴史を調べていくと、思いがけない人物に遭遇しました。それは江戸時代の名君と謳われた米沢藩9代藩主・上杉鷹山(ようざん)公です。鷹山公と黒田家秋月藩8代藩主・長舒(ながのぶ)公は、ともに日向高鍋藩秋月家を祖とする叔父甥の間柄。その秋月家は、鎌倉時代から豊臣秀吉が九州統一にやって来るまで秋月を治めていた豪族の秋月氏一族です。


 二人は、同時代にそれぞれ藩主となり、長舒公は、叔父の鷹山公が米沢藩の財政再建のために実施した殖産政策にならい、その結果、秋月では葛粉の生産が成果を上げ藩の財政を潤すことになったのです。

 


 鎌倉時代から約400年間治めてきた秋月氏一族は、16代種実のとき豊臣秀吉に攻められ、その後、日向高鍋に移封されます。ところが、その200年後、8代藩主黒田長舒公を藩主に迎えたことによって、秋月の地に再び秋月家の血が通うことになります。その奇跡とも偶然ともいえる邂逅によって、結果的に葛が誕生することになるのですから、秋月と葛の出合いにはまさに時空を超えた歴史のロマンが見え隠れしています。

秋月の自然と本葛(本くず粉)づくり

 豊かな自然に囲まれた秋月は、北部九州の小京都と称される城下町。町の背後にそびえる霊峰古処山を源流とする美しい水に恵まれ、また、朝晩の寒暖差が大きいことから、とくに春の桜と秋の紅葉は格別に美しく県内指折りの観光地として知られています。
 「粗葛」までの工程を鹿児島工場で終えると、それを秋月に持ち帰り、冬場のキュッと寒の締まるなかで水晒し(寒晒し)、伝統的な「舟入れ・舟上げ」の工程でしっかりと水分を吸い取り乾燥させます。そのとき葛の表面をよく見ると、水分を吸い取るために掛けた布のわずかなズレやシワが模様となって表面に刻まれているのがわかります。これが、紛れもなく伝統的製法でつくった久助本葛であることを示す確かな証です。


 さらに風通しの良い葛蔵で2ヶ月間日陰干しした後、半年から1年間、秋月の清冽な空気の中でじっくり自然乾燥させることで熟成度が高まります。葛根の収穫から製品になるまで実に1年がかり、唯一無比、清き極みの逸品、白い金とも称される「久助本葛」ができあがります。

秋月の町並み

「手間暇をかける」という当たり前

 「久助本葛」の塊はとても硬く、輝くように白いため、何か添加物のようなものでも使っているのでは? と言う声を耳にすることがあります。しかし、私どもでは食の安心、安全に照らしても一切、そういうものは使いませんし、また、必要としていません。秋月の水の力で寒晒しをし、時間をかけてじっくりと自然乾燥させていくことで際立つ白さになっていきます。
 愚直で時代遅れ、非科学的な製法などと度々言われましたが、科学が発達する時代になればなるほど、先人の知恵や工夫がいかに素晴らしく、また、ものづくりをする上で手間暇をかけることがいかに大事なことかがよくわかります。

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